ウクライナ情勢。マリウポルでは、容赦のない爆撃が続いている。両国の膠着状態を象徴している。
https://www.nytimes.com/live/2022/03/20/world/ukraine-russia-war
NYTコラムより。ウクライナ危機は、われわれに道徳上のどんなものを突き付けているのか。
過去のジェノサイドの事例。コソボやルワンダ危機を振り返りながら、アメリカの介入の失敗、できることとできないことを峻別しつつ論じている。
1994年に起きたルワンダ虐殺では、実に80万人もの人々が殺された。全人口の1割に相当する。米国はこのジェノサイドに介入することはなかった。
それから4年後の1998年にはコソボで紛争が発生し、1万3000人が殺され、難民となった。当時、米国やNATOがこの紛争に介入する戦略的、経済的な利益はなかったと位置付けられた。
米国やNATOにとっての根本的な問題はモラル、つまり道徳である。セルビアのいう「民族浄化」は我々の価値にとって深い攻撃ではないのか。もし、このまま答えずに放置しておけば、国際秩序を支える道徳の基礎を揺るがすことにならないか。
ここで問いが生じる。アメリカは介入する道徳的義務をいつ発生するのか。アメリカとNATOはウクライナに対して地政学的利益をはっきりと有している。
ゼレンスキー大統領が米国議会で演説した内容の1つは、米国の道徳に訴えるものだった。
トーマス・フリードマン。ウクライナ戦争には多くの驚きがあった。
プーチン氏にとって1つの誤算は、3週間もすればウクライナ議会で勝利の演説ができると高をくくったことであろう。そして、ゼレンスキー大統領がポーランドのエアビーに逃げ出すと思いこんだことだ。
逆にに、ウクライナ人たちは自由と自己決定のために死に物狂いで戦っている。プーチン氏はいつ、ロシアの軍隊が自分自身に銃を向ける日がくるのか、恐れているだろう。そして、インターネットでつながった世界において、世界の人々はこの戦争の帰趨を見つめている。